「考え抜くこと」と「無念無想」

(2011年06月02日)

江戸時代の思想家・頼山陽は、モノを考えるのは
「枕上・馬上・厠上」の三上がよいと言っています。
確かに寝る前や、風呂・トイレに入っている時、あるいは
散歩をしている時に良いアイデアが浮かぶことは、
私たちが日常生活で経験していることです。
 
私も日々人間探求を行ない、東奔西走しながら語り
続ける毎日を送っていますが、不思議なことに
「今日は非常に良かった」と思う時は、自分が
次に何を語るかをまったく考えていなくても次々と
言葉が口から溢れていきます。

反対に「次はこのことを話さなければならない」と
考えながら話をする時は、終わってから何か不完全燃焼の
ような感じを持つのです。
 
しかし、よく考えてみると、会場全体が一つに響き合う
時には、そのテーマについて心のなかで徹底的に考え
ぬいた事柄であったことに気づきます。
それが、心のなかで熟成された時、奔流となって表に
出てくるのです。
そうした徹底した思案と同時に、無念無想、すなわち
瞑想の時を持つことが
その人の生命に大きなエネルギーを与えるのでしょう。
 
昔、ある怠け者の修行僧が「悟りを拓く簡単な方法は
ありませんか」と師匠に訊ねたところ、師匠は「明日まで
『猿』のことについて何も考えなければ、お前は悟れる」と
答えたそうです。
弟子は「そんなことは朝飯前」と喜び、眠りについた
のですが、頭のなかに次々と『猿』が現われて、とうとう
一睡もできずに夜が明けたという笑い話があります。
 
無念無想は、ただ単に何も考えないということでは
ありません。
無念無想になろうと思えば思うほど、雑念が湧いて
出てきます。
つまり何も考えないでおこうと思えば思うほど、
意識は混濁していくのです。
 
では、どうすれば良いか。
考えるべきことは徹底して考え抜くことです。
そしてこれ以上考えられないところまで意識を集中した時、
反対にその意識の
働きは静まり、内なる精妙な意識が浮かび上がってきます。
その時、真のひらめきが訪れるのです。
 
瞑想とは、そんな自分の心のなかの真実の声に静かに
耳を傾けることです。
ただ目を瞑ってじっとしているというのではなく、
不断に真実の自分と向かい合っていることなのです。